Date: 2026-05-08
Snowpiercer・설국열차・雪國列車:他のすべてが止まってしまった後に、まだ動き続けているもの。
2026年に入って、僕がスマホで撮った最初の写真は、別に大したものじゃない。何十年分もの汚れが筋を引いて残ったままの窓ガラス。雪に覆われた畑のぼやけた景色。南へ轟音を立てて駆け抜ける、線路の枕木のブレ。ほんの数時間前まで友達とニューヨークコリアタウンのクラブで意識が飛ぶほど酔っ払って新年を迎えていた僕は、韓国から学会のために飛んできたお世話になっている方に会うために、フィラデルフィア行きの列車に乗っていた。
アメリカ東海岸は、何週間もの間、きらめく白い粉雪に埋もれていた。ここ数年の記憶の中でも、一番厳しい冬のひとつだったと思う。傷だらけのガラス越しに見えるニュージャージー州中部の景色は、完全に見覚えのない場所のようで、まるでどこか別の国にいるみたいだった。例えば、北海道、とか?
トレイテーブルの上のノートパソコンには、台湾のバックパッカー向けの掲示板に書かれたひとつの投稿が、Google翻訳でぐちゃぐちゃに訳された状態で開かれていた。十年以上前に、名前も知らない誰かが書いた文章。それは、行き先のない旅をする一人の男の話だった。彼は真冬の日本の田舎を電車で巡りながら、十八歳の頃に好きだった人を探していた。けれど、たどり着いたときには、もう間に合わなかった。三分の一くらい読み進めたところで、僕はふと気づく。画面の中の雪よりも、窓の外の雪の方が、ずっと興味深く感じられることに。顔を上げると、その名もなき誰かの窓と、僕の窓が重なり始めていた。
…
高校時代は、正直、わりと辛かった。あの時期を生き延びられたことに、今は感謝しているくらい。当時の僕は、音楽の中に意味と慰めを探していた。今回の旅で、またBTSによく戻ってきた。彼らの音楽には、痛々しいほどの感情の率直さと、隠された物語が織り込まれているから。『春の日 (Spring Day)』が出たのは、僕が高校三年だった2017年のこと。歌詞の意味についての解釈は人それぞれだけど、一般的には、BTSが2014年のセウォル号沈没事故の遺族たちのために書いた曲のひとつだと理解されている。冬がどれだけ続けば、春が来るのか、と問いかける曲として。当時の僕はまだ韓国語が読めなくて、だから日本語版の歌詞を、それこそ容赦なく解剖するように読み込んでいた。畑が郊外へ、そして最後にフィラデルフィアの高層ビルへと変わっていくのを眺めながら、十六歳の頃から心のどこかにずっと持ち続けていた、あの一節が、ふと浮かんできた。
まるで冬のようさ 夏でも吹雪くようさ
心を乗せた列車 すでに雪の中
いっそ君と地球の裏側へ 手を掴んでもう 逃げたい
どれだけ降れば春の日が来るのだろう
もちろん、フィラデルフィアへ向かうあの列車の中では、まだ何もわかっていなかった僕は、その歌詞について深く考えることなんてなかったけど。
でも、もしかしたら、あれは何かの予兆だったのかもしれない。僕は列車に閉じ込められたまま、君はもう、すでに離れ始めていた。僕の中のどこかで、あの歌詞は、僕より先にそれを知っていたんだ。
第一幕:
季節の中に留まることを拒む、そんな冬がある。それは胸の中にすっと滑り込んできて、そのまま居座り続ける。外の天気にも、カレンダーが何月を指しているかにも、無関心なまま。五月の光の中で、何週間も前から花を咲かせている街の中で、それでも胸骨の奥のどこかに雪を感じることがある。
先週の月曜日、いつものコーヒー屋まで、何ブロックか歩いた。家の通りの木々がやっと花を咲かせていて、日差しは暖かくて、店に着く頃にはもうジャケットを脱いでいた。窓辺の席で、カップの中身が半分くらいになった頃、ふと気づいた。僕は、両手でカップを包み込むように持っていた。二月にやる、あの持ち方で。カップの中の温もりだけが、周りに残されたたったひとつの温もりみたいに感じる、あの持ち方で。外の木々は、彼らなりに役割を果たしていた。でも、僕の手の中のカップには、カップなりの考えがあったみたいだ。身体は身体で、自分だけの天気を持ち続けている。
第二幕:
列車に乗せられた僕の心は、僕がまだ知らなかった何かを、すでに知っていた。動いている。プラットフォームを猛スピードで通り過ぎていく。その風圧で、立っていられなくなりそうなほどに。同意したわけでもない旅路に、ただ突き進んでいく。そうやって、それは、僕を置いて動き出してしまった。
ポン・ジュノ監督の2013年の映画『スノーピアサー (雪國列車)』では、人類最後の生き残りたちが、その列車に乗って暮らしている。凍りついた地球を永遠に周回し続ける列車。乗客たちは最後尾の車両から先頭のエンジンまで、階級ごとにきっちり分けられていて、彼らが『永遠のエンジン (Engine Eternal)』と呼んで崇めている、神聖な機関によって、ずっと動かされ続けている。『永遠のエンジン』は、本当に強力だ。理性も、僕たちが知っているあらゆる直感や感覚も、すべて押し流してしまう。その力で、『雪國列車』は地球を轟きながら走り続ける。ほんの少しも速度を緩めることを拒みながら。一瞬、僕もその『永遠のエンジン』に動かされるまま、夢中で走った。なんとか確保できる週末。ハンドルを握って向かうドライブ。訪ねる街。少しでも遅くなってくれと頼みたくなるカレンダー。でも、時間はどうしても緩んではくれなかった。だから、行き先も見えないまま、僕はただ前へと足を進め続けるしかなかった。
너무 야속한 시간
本当に、無情な時間나는 우리가 밉다
僕は、僕たちが憎い이제 얼굴 한 번 보는 것 조차 힘들어진 우리가
もう、一度顔を合わせることすら難しくなってしまった、僕たちが
時間は、僕たちのどちらよりも、ずっと残酷だった。
画面に開かれていたあのブログ記事には、名もなき彼以外の語り手はいなかった。それは、彼が十八歳のときに起きたことを、何年も経ってから書いた、これ以上ないくらい生々しい個人的な手記だった。その年、彼は台南のカラオケ店で働きながらお金を貯めていて、ある日、財布を失くして仕事を探していた『アミ (亜美)』という日本人のバックパッカーと出会う。最初は躊躇していた彼だったけれど、時間が経つにつれ、気づけば恋に落ちていた。アミはアーティストで、僕がなかなか他の人には見つけられないような、特別な軽やかさを持っていた人だった。あの夏、彼はアミに台湾を案内する。十分(シーフェン)の灯籠祭りで、アミは彼にハガキを残した。「夢が見つかったら、教えてね。お互い、なりたい自分になれたら、また会いに来て」と。それから、彼女は日本へ帰っていった。何の説明も残さないまま。
十年後、このブログ記事は、日本と台湾の合作映画『青春18×2 君へと続く道』として映像化される。そして僕は、ニューアークからサンフランシスコへ向かう機内で、その映画を初めて観ることになる。2024年のことだ。『青春18』は、日本のJR全線の各駅停車が五日間乗り放題になる、学校の長期休みのときだけ買える特別な切符のことだ。この名前にはもうひとつ意味がある。『十八歳』。物事がどう終わるのか、まだ何もわからない、あの年齢の象徴として。映画の中で、僕たちが今ジミーだと知ることになるあの名もなき彼は、三十六歳、つまり十八の二倍、昔の自分の二倍の年齢のときに、自分が共同創業した会社をクビになったことを知り、台湾南部の実家へ戻ってくる。そして、ここでアミからのハガキが、再び姿を現す。ほとんど間を置かず、ジミーは北へ向かう列車に乗り込む。東京、鎌倉、長野、新潟、そして最後に福島。どの車両でも、ある見知らぬ誰かが、あの台南の夏の記憶を呼び起こす引き金になる。雪の降る長岡で降りてみないかと誘ってくる学生バックパッカー。ジミーの故郷である台湾の同郷人だった、松本の居酒屋の店主。十八年前にジミーとアミが願いを込めて飛ばした日本の灯籠祭りに、ジミーを車で連れていってくれる、ネットカフェの女性。けれど、ジミーがアミの故郷である只見へと近づくにつれ、日本と台湾のコントラストが、少しずつくっきりしてくる。台湾はあたたかいイメージで満ちている。熱帯の夏の暑さ、壁画の色、ラジオから流れるMaydayの曲。一方の日本は、青く、冷たい。あのシーンを観ているだけで、ものすごい孤独に襲われる。
「現在というのは、過去がスローモーションで戻ってきているだけ」。そう気づく瞬間がある。ジミーがハガキの住所にたどり着いたとき、彼はもう、すでに気づいている。アミは、日本に帰ってからほどなくして、亡くなっていた。彼は、自分のキャリアの成功の中で、ずっと彼女の死を抱えたまま、それに気づかずに生きてきた。でも今、その成功も失われてしまった。そして、すべてが止まってしまった世界で、まだ動き続けているのは、ジミーだけになる。
けれど、この映画が決してしないことが、ひとつある。それは、現在に対して、過去が本当はどういう意味だったのかを、今この瞬間に教えること。十八歳のジミーは、自分が人生で最も決定的な出会いを経験している、なんてもちろん知らない。彼の頭の中にあるのは、カラオケ店でののんびりした数週間、好きだけど一緒にはいられない女の子、ちょっと痛いけどなんとか耐えられる程度のさよなら。アミがアミになるのは、ずっと後のことだ。彼女の不在が、ジミーにとって本当はどういう意味だったのかを告げる頃には、彼女はもうとっくに、プラットフォームの向こうへ、雪の中へ、姿を消してしまっている。
僕がその列車に乗ったあの日、僕は二十四歳になったばかりだった。今、頭の中で『春の日』の日本語版がループしながら、君が離れていくのが見えていた。あの数週間を、未来の僕がまた振り返って、自分が何かの中にいたことに気づきもしないまま過ごしていた時間として、思い出すことになるんだろうな。そんな予感が、すでに静かに芽生え始めていた。
…
数週間前、エール大の友達のイーサンと、たまたま二人ともボストンに仕事で出張していて、再会することができた。ジェリーが運転する日産アルティマの後部座席で、僕たちは街を流しながら、三人ともそれぞれ、人生のこの章節が一体何を意味しているのかを探していた。あの会話のほとんどは覚えていないけれど、ひとつだけ、三人とも意外にも完全に同意した考えがある。それは、すべての変数を一定にしたまま、タイミングだけが違う関係性は、選ぶタイミングによって、まったく違う関係になる、ということ。正しいタイミングは、結局のところ、後から振り返ってからしかわからない。そう、すべては、後から振り返ったときにだけ、意味を持つように見える。
イーサンが言いたかったのは、たぶん、こういうことだ。僕たちにとって、すべてがうまくいっていたかもしれないバージョンというのは、そもそも、たどり着けない配置の中にしか存在しなかった。もしかしたら、もしかしたらだけど、カレンダーにもう少しだけ余裕があったら、大陸を横切る必要がなかったら、仕事の上に仕事を積み重ねる必要がなかったら、僕たちは続いていたのかもしれない。あるいは、それでもダメだったかもしれない。とにかく、その可能性は、僕たちが手にすることのなかったタイミングの中にだけ存在していた。ジミーとアミがうまくいっていたバージョンが、彼らが手にすることのなかったタイミングの中にだけ存在していたのと、同じように。
たぶん、悪役なんていない。ただ、カレンダーがあるだけだ。
第三幕:
あの列車に乗ってから、それほど経たないうちに、僕たちは大陸をひとつ越えた、世界の縁に立っていた。風が、ほとんど僕たちを吹き飛ばしそうな勢いで吹いていた。君は僕の手を取って、海に向かって走り出した。あの一瞬だけ、世界の何ものも、僕たちに触れることはできなかった。海は海の役割を果たしていた。光は光の役割を果たしていた。目の前にあったのは、ただ水と、見渡す限りの水だけ。あの夜だけは、『春の日』の冒頭の一節が、本当のように響いていた。
いっそ君と地球の裏側へ 手を掴んでもう 逃げたい
僕たちは、この国が許す限りの距離を走り抜けて、大陸はその足元で終わっていた。
…
ちょうどこの一節の少し前に、韓国語版のあの歌は、永遠の冬の中の線路を、たった一台の列車が走り抜けるイメージを描く。
여긴 온통 겨울 뿐이야
ここはどこを見ても、ただ冬だけ8월에도 겨울이 와
八月にも、冬がやってくる
(1998年の映画『8月のクリスマス』への言及)마음은 시간을 달려가네
心は、時間を駆け抜けていく
(2006年の映画『時をかける少女』への言及)홀로 남은 雪國列車
ただ一台、取り残された雪國列車
最初は、ひとり。それから、手を取る。それから、走り出す。あの瞬間だけは、孤独が宙づりになる。列車はまだ動き続けているけれど、今は二人で乗っている。窓の外の雪は、もう気候じゃなくて、ただの風景になる。
この大空を舞う粉雪のよう 粉雪のよう
날리는 눈이 나라면
もし舞い散る雪が、僕だったなら조금 더 빨리 네게 닿을 수 있을 텐데
もう少しだけ早く、君のところに届けたかもしれないのに……
このあとにも、広い空を舞う細かな粉雪についての一節が続いて、もし僕たちが舞い散る雪片だったなら、もっと早くお互いのところへたどり着けたのに、と歌う。あのイメージの残酷さは、距離があることを前提にしていることだ。あの場所、世界の縁では、距離なんてなかった。僕たちはついに、同じ国の同じ一坪の上に、立っていた。
でも、列車は止まらない。三月になる頃には、僕たちは同じ街にいたのに、なぜか、大陸の両端にいたときよりも、遠く離れていた。地理は、本当の意味では、一度も障害じゃなかった。タイミングがすべてを引き継いだ。いつもそうするように。粉雪は、舞い続ける。ただ、地面に降りないだけだ。
僕は、今でもわからない。何が変わったのか。あのとき、いつかまた戻るって約束したのに、戻らなかった。君が、僕には見えない何かと闘っていたことは、知っている。しばらくの間、君が変わったんだ、と自分に言い聞かせていた。
でも、本当のところ、変わったのは誰だったんだろう?
その答えは、僕たちのどちらにも、降りてくる。沈黙の中で去っていった人を悼む唯一の方法は、その人を恨むか、忘れるか、のどちらかしかない。そして、恨むことの方がずっと高くつくと、わかっている。
니가 변한 건지
君が変わったのか아니면 내가 변한 건지
それとも、変わったのは僕の方なのか이 순간 흐르는 시간조차 미워
この瞬間流れていく時間さえ憎い우리가 변한 거지 뭐
結局、変わったのは僕たちなんだろう모두가 그런 거지 뭐
結局、誰だってそうなんだろう그래 밉다 니가
そう、君が憎い넌 떠났지만
君は離れていったけど단 하루도 너를 잊은 적이 없었지 난
たった一日だって、君を忘れた日はなかったよ、僕は솔직히 보고 싶은데
正直、会いたいのに이만 너를 지울게
もう、君のことを消すよ그게 널 원망하기보단 덜 아프니까
その方が、君を恨むよりは、痛みが少ないから
僕はまだ、選んでいない。ただ、こうやって書いているだけだ。
第四幕:
今は、五月初めの、午前三時。また、頭の中の問いが、僕を眠らせてくれない。季節というものが必ず循環するもので、冬の後には必ず春が来るということを知っているなら、一体、あとどれだけ降れば、春の日は来るんだろう?
数ヶ月の間、僕はずっとその問いを抱えて生きていた。でも、もしかしたら、答えるためにある問いじゃないのかもしれない。ただ、その問いが描いている季節を一緒に過ごすために、そばにいてくれるだけの問いなのかも。
『雪國列車 (Snowpiercer)』もまた、きれいに解決しないということに、僕は何かしらの慰めを見出した。外の世界は、荒涼として、人間が住めそうにない冬。列車だけが、残されたすべて。雪の中へ抜け出すのか、それとも乗り続けるのか。その選択は、最後に、乗客たちに委ねられる。ラストの解釈はそれぞれで、その人が『生き延びる』ということを何のためだと考えているかが、そのまま映し出される。僕はまだ、自分がどう思っているのか、わからない。
…
『春の日』は、静かに、控えめに終わっていく。サビは最初、いつまで待てばいいのか、何度の凍える夜を耐えれば、また君に会えるのかを問いかけていた。でも最後の一節で、その問いが反転する。語り手はもう、凍える夜を数えていない。彼は、走り出す。向こう側にいる誰かに「もう少しだけ待っていて」と告げて。物理的な距離も、心の中の距離も、自分自身で縮めにいく、と宣言する。
どれほど想えば 凍える夜数えれば
ねぇ、会えるの?
…
조금만 기다리면
もう少しだけ待っていて며칠 밤만 더 새우면
あと数日、眠れない夜を越えれば만나러 갈게
会いに行くから
そうやって、僕たちは『耐えること』から『動くこと』へとシフトする。夜を待ちながら越えることから、夜の中を歩いていくことへ。待つことが、麻痺するような冬だったとすれば、歩くことは、ある種の春なんだと思う。
『春の日』が、文字通りの再会を約束しているとは思わない。むしろ、僕たちはもう、列車のただの乗客であることをやめた、と語っているんだと思う。列車は、いつだって走り続けることになっていた。問いは、君がただ運ばれ続けるかどうか、だった。
あの朝に僕が乗っていた列車は、今もボストンとワシントンDCの間の、どこかの路線を走っている。Northeast Regionalは、年が変わったことなんて、気にしない。今この瞬間にも、誰かがその列車に乗っていて、自分の窓の外の雪を眺めながら、自分の中にふと浮かんでくる歌の一節を聞きながら、自分がもう自分のものですらない、ずっと昔から続いている枠の中で生きていることに、まだ気づいていない。列車は、前へ前へと突き進む。それは昔からそうだった。問いは、君がその列車にひとりで乗っているのか、それとも、ある区間だけは、誰かと一緒にどこかへ向かっているのか。そして、また一人になったとき、その旅が確かに本物だったということを、君が覚えていられるかどうか、なんだ。
外側のすべての指標で言えば、春は来ている。僕の街にそびえる高い木々は、僕の胸の中なんて、気にしてくれない。彼らは彼らの仕事をしていて、毎朝コーヒーを買いに行く僕は、その横を通り過ぎていく。それでも、僕の心はまだ、二月の終わり頃に置き去りにされたままのように感じる。もうそろそろ冬が終わるかもしれない、と信じられるけど、まだ実感としては感じられない、あの時期に。僕たちがまた会えるのかは、わからない。僕たちが、また会うべきなのかも、わからない。わかるのは、僕がいま、冬の中のある瞬間について、春の中で書いている、ということ。これはこの種のものが解決していく、唯一の方向だ。正しいタイミングは、いつだって、振り返ったときにしか姿を現さない。すべては、振り返ったときに初めて意味を持つはずだ。だから、僕は今日、振り返っている。
今は、五月。それでも、まだ春が来た、という感じはしない。
でも、僕はもう、待たないことにする。だから、こうやって、書いているんだ。